フ音
武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
福島 市松 ふくしま いちまつ  =福島正則
福島 正則 ふくしま まさのり  1561年尾張国で誕生する。桶屋の息子であったが、母が豊臣秀吉の実父の妹という縁あって、秀吉に預けられる。1583年織田信長が本能寺の変で倒れた後の次期天下人を決める賤ヶ岳の戦いで七本槍の筆頭となる武功を挙げ、天下に名を知らしめる。その後、豊臣政権の中で確実に出世を果たす。1600年関ヶ原の戦いでは、東軍につき安芸、備後国を与えられ、49万石の大名になる。しかし、晩年は居城広島城の無断改修等を理由に川中島2万石という改易に近い命令を受け、川中島で生涯を終える。享年64歳。
福原 長堯 ふくはら ながたか  豊臣秀次が高野山で切腹の折、福島正則・池田秀氏と共に検使役を勤めた。1597年(慶長2年)豊後国府内城主として12万石を領した。(この褒賞には長堯が石田三成の女婿もしくは妹婿であったためらしい。)第二次朝鮮出兵には奉行として渡海。1599年(慶長4年)徳川家康に朝鮮の役での諸将との対立を咎められ6万石に減封された。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの折りには西軍に属し、美濃国大垣城を守備した。戦後、和議により開城し、伊勢国朝熊(あさま)に幽閉され、10月2日自害。
藤田 行政 ふじた ゆきまさ  伝五郎。譜代衆。五宿老の一人。浅井・朝倉攻めから従軍。山城静原城攻め後、同城を預かる。山崎の合戦に際し筒井順慶の説得に向かうも不首尾に終わる。密かに順慶刺殺を目論んでいたといい、一説には郡山城で殺害されたとも。山崎では本陣右備を務め六ヶ所の傷を負い淀まで退却するも翌日自刃。 明智家臣団
藤原 秀吉 ふじわら ひでよし  =豊臣秀吉
古田 織部 ふるた おりべ  =古田重然
古田 重然 ふるた しげてる  織部正(おりべのしょう)。美濃出身の武士で初め織田信長に仕えるが、利休七哲に挙げられる程の茶人でもあった。千利休が失脚後、その後任として豊臣秀吉の茶頭となり、武人の茶は武人らしくという考え方から「大名茶」という一流を築く。秀吉の死後は徳川家康に用いられ、徳川秀忠の茶道指南に任じられる。
 大坂冬の陣の際、佐竹義宣の陣中を見舞い、竹束のかげで茶を点てているときに敵方から鉄砲を打ちかけられ、坊主頭にかすり傷を負っている。このとき、慌てふためかず、傷口を袱紗(ふくさ:茶器を拭いたり、お盆の代りに茶器の下に敷く絹布)でぬぐい、周囲の者から「袱紗で傷をぬぐうとはさすが数寄者の名に恥じず」と言わしめた。その後、家康から血止めの薬を送られている。しかし、大坂夏の陣の際、大坂方への内通を疑われ、大坂夏の陣の直後、家康より切腹を命じられ、自害。 
古田 重広 ふるた しげひろ  古田重然の嫡子。父と共に大坂の夏の陣直後、自害している。
不破 光治 ふわ みつはる  初め、斎藤氏に仕えるも、美濃三人衆と同じく織田信長に降っている。その後は織田家臣として、姉川の戦いなど各地を転戦して活躍している。越前国平定後は佐々成政前田利家と並び、越前2群を与えられて、「府中三人衆」と呼ばれる。1580年(天正8年)12月14日死去。 織田家臣団
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