| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 上泉 信綱 | こういずみ のぶつな | =上泉信綱(かみいずみ)とも。 | ||
| 上泉 泰綱 | こういずみ やすつな | =上泉泰綱(かみいずみ)とも。 | ||
| ★ | 高坂 正信 | こうさか まさのぶ | 御譜代家老衆。春日大隅の子。北信濃の名族高坂(香坂)氏の名跡を継ぎ、弾正忠を名乗ったが、のち春日の本姓に復した。 16才で武田信玄の近習となり、使番を経て1552年(天文21年)、侍大将となった。その後信濃国小諸城代、海津城代となった。1561年(永禄4年)、第四次川中島の合戦のとき、上杉軍の殿を攻撃して戦功を挙げた。1578年(天正6年)5月7日没。 |
武田家臣団 |
| 高台院 | こうだいいん | 豊臣秀吉の正室。秀吉とは糟糠の妻として秀吉の大出世を影ながら支えた。しかし、秀吉とは子宝を恵まれなかった。秀吉没後は高台院と号し京都に高台院を建立し、そこで隠棲した。豊臣氏滅亡後も同地で晩年を送った。豊臣氏の誕生から滅亡までを見届けたまさに生き証人であった。 | ||
| 河野 通直 | こうの みちなお | 伊予守護・河野氏当主。嗣子がなかった為、女婿だった来島通康を当主に迎えようとしたが、分家を推す一族重臣の反対を受け、内紛の様相を呈してきたので、通直はこれと和議し分家に家督を譲って隠居、城を出た。 | ||
| 木造 具政 | こづくり ともまさ | 北畠晴具(はるとも)の3男で北畠具教の弟。木造家の養子となる。1569年(永禄12年)5月具教に背き織田信長に属し、北畠氏を継いだ織田信雄に仕えた。 | 織田家臣団 | |
| 木造 具康 | こづくり ともやす | 伊勢国北畠氏の一族。織田信雄に仕えたが主家没落により豊臣秀吉に転仕。織田秀信の老臣となり2万5千石を与えられた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで主君秀信に東軍加担をすすめたがならず、具康は岐阜の戦いで敢闘するが惨敗した。 | 織田家臣団 | |
| 後藤 又兵衛 | ごとう またべえ | =後藤基次。 | ||
| 後藤 基次 | ごとう もとつぐ | 黒田官兵衛にはじめ仕えたが、家臣の反逆事件に連座して追放されたが、黒田長政のときに再度仕えた。九州の陣、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、長政に従い奮戦した。しかし、後に謀反の疑いをかけられて浪人した。大坂冬の陣に豊臣秀頼に招かれて大坂城に入城、夏の陣では奮戦するも1615年(元和元年)5月6日討死。 | ||
| 後奈良天皇 | ごならてんのう | 在位1526年(大永6年)〜1557年(弘治3年)1526年即位したが、即位の儀式を行なえず、10年後各地の守護大名の献金によりようやく行なえることができた。和歌をよくしたほか、日記などがある。1557年(弘治3年)9月5日没する。 | ||
| 小西 行長 | こにし ゆきなが | 幼名、弥九郎。堺出身の豪商小西隆佐の次男。はじめ、宇喜多直家に仕えるが、1580年(天正8年)の頃より、秀吉に仕えるようになる。肥後宇土城を与えられ、肥後半国を領する。朝鮮出兵では加藤清正と共に先陣として派兵。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦。伊吹山山中で捉えれ、1600年(慶長5年)、10月1日京都六条河原で斬首された。 | ||
| 小西 隆佐 | こにし りゅうさ | 和泉堺出身の豪商。1585年(天正13年)頃から豊臣秀吉により、河内・和泉の蔵入地分代官となり、1587年(天正15年)には島津討伐の兵糧調達を命ぜられている。1592年(文禄元年)朝鮮派兵のとき肥前名護屋にあったが、発病し、堺から京都へ出て、同年京都で死去。 | ||
| 近衛 前久 | このえ さきひさ | 藤原氏。1560年(永禄3年)越後国に下向し上杉謙信と共に関東に進攻したこともある。帰京後も摂津国・丹波国・薩摩国に下ったりしている。本能寺の変にあい、出家し隠棲していたが、豊臣秀吉に疎まれ、徳川家康の元に身を寄せた。 | ||
| 近衛 信尹 | このえ のぶただ | 近衛前久の子。朝鮮出兵の際、豊臣秀吉に強いて希望したため、後陽成天皇の怒りにふれ薩摩国に流された。1596年(慶長元年)、許されて帰京し、左大臣に還任。 | ||
| 近衛 信尋 | このえ のぶひろ | 近衛信尹の養子となり、近衛家の跡を継ぐ。 | ||
| 小早川 隆景 | こばやかわ たかかげ | 毛利元就の3男。1544年(天文13年)安芸国の豪族竹原小早川氏の養子となり、後年小早川氏の惣領家である沼田小早川氏を相続し、小早川家を統一した。父の元就、兄の隆元、甥の輝元を助けて中国及び四国・九州の一部を平定した。織田家とは対立をしたが、豊臣家とは従属の形をとり、秀吉からは絶大なる信頼を得て、豊臣5大老の一人として中央政治に参画した。また、秀吉の外甥の秀秋を養子に迎え小早川氏を継がせた。 | ||
| 小早川 秀秋 | こばやかわ ひであき | 豊臣秀吉の正室北の政所の兄木下家定の子。3歳のとき秀吉の養子になり寵愛を受ける。しかし、秀吉の秀頼が誕生すると、小早川家に養子に出される。慶長の役に大将として出陣するもその際の軽率な行動を秀吉より強く咎められている。関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍につくも東軍に寝返り東軍勝利に大きく貢献している。しかし、その際の罪悪感からか1602年(慶長7年)に21歳という若さで狂い死にしている。嫡子がいなかったため、小早川家の宗家は断絶している。 | ||
| ★ | 駒井 昌直 | こまい まさなお | 御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。1570年(永禄13年)伊豆国深沢城代となり北条氏への備えを固めた。1582年(天正10年)武田氏滅亡後は徳川家臣榊原康政に仕えた。1595年(文禄4年)病死。 | 武田家臣団 |
| 後水尾天皇 | ごみずのおてんのう | 第108代の天皇。名は政仁(ことひと)。後陽成天皇の第3皇子。徳川秀忠の娘和子(東福門院)を中宮とした。 | ||
| 後陽成天皇 | ごようぜいてんのう | 1588年(天正16年)豊臣秀吉の奏請により、前年完成した聚楽第に行幸し、秀吉の威勢を天下に示した。徳川家康との対立によって譲位した。 | ||