武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
赤井 直正 あかい なおまさ  丹波国黒井城主。はじめ荻野氏を称す。1575年(天正3年)明智光秀と戦い、撃退した。武勇に優れた丹波国奥三郡の支配者。1578年(天正6年)3月9日死去。
 直正死後、その子直義が黒井城主を務める。
秋山 虎繁 あきやま とらしげ 以前は秋山信友と言われていたが、花押の鑑定結果等により虎繁に改められた。 武田家臣団
秋山 信友 あきやま のぶとも  武田信玄の侍大将。知勇兼備の名将でその勇猛ぶりから、「武田の猛牛」と恐れられた。1572年(元亀2年)美濃国岩村を攻略し、城主遠山氏の後家織田氏(信長の叔母)を娶り城主となる。1575年(天正3年)長篠の敗戦後、よく城を守ったが、11月織田信長信忠の攻撃を受けて降伏。長良川原で磔にされた。享年49歳。
明智 定頼 あけち さだより  明智光秀の次男。十次郎。 筒井順慶の養子となる。本能寺の変後、秀満とともに安土城に入り近江一帯の掌握に努める。山崎の敗戦に接し坂本城で殉死した。
明智 秀満 あけち ひでみつ  左馬助、三宅弥平次。丹波福知山城主。五宿老の一人1578年(天正6年)荒木村次に嫁いでいた光秀の娘、倫子が離縁されるとこれと再婚、明智秀満と名乗る。光秀の右腕として活躍。本能寺の変に際しては本能寺に織田信長を攻める。その後安土を守備するが山崎の合戦の敗北を知り光秀を援護に向かうが進軍してきた堀直政軍と交戦し敗北、ただ一騎琵琶湖を馬で渡り「左馬助の湖水渡り」として膾炙する。また坂本城入城後は包囲軍に城内の名物を目録と共に引き渡しあっぱれな武者として名を残す。その後一族と共に自刃したと伝わるがその子はその後も生き延び後細川家、寺沢家に仕えたという記録もありまた妻も再婚したという文献も残り事実は不明。一説に天海僧正は光秀ではなく秀満という説もある。 明智家臣団
明智 光忠 あけち みつただ  治右衛門。丹波八上城主、若しくは周山城主という。五宿老の一人。一説には美濃国明智城近在の農民の子だったとも。1575年(天正3年)の丹波国過部城攻めでは織田信長から感状を下され次右衛門を治右衛門に改める。本能寺の変に際し二条御所に織田信忠を攻めるが銃弾を浴び負傷、知恩院で療養中山崎の敗戦を聞き自刃したという。 明智家臣団
明智 光秀 あけち みつひで  足利義昭織田信長に引き合わせて、その後、信長の下で数々の武勲をあげ、出世するもわずかの供回りで本能寺に宿泊中の主君信長を討つ。本能寺の変を起こした理由は諸説あるが、未だ謎である。 詳細
織田家臣団
明智 光安 あけち みつやす  斎藤道三義龍の争いには道三方につき、敗れて美濃国明智城に籠城し、城と共に1556年(弘治2年)9月26日自害した。 明智家臣団
浅井 井頼 あさい いより  喜八郎。作庵。近江国小谷城浅井長政の次男。小谷城落城後は常高院の元に身をよせ、羽柴秀勝豊臣秀長秀保に仕える。1594年(文禄3年)増田長盛の家臣となるが、関ヶ原の合戦後の主家没落後は生駒一正に仕えたが、1614年(慶長19年)に大坂城に入り、夏の陣に討死したとも、京極家に客分として仕えたとも言われる。
浅井 喜八郎 あざい きはちろう  =浅井井頼
浅井 長時 あさい ながとき  織田信雄の家老。尾張国刈安賀城主。
 1584年(天正12年)豊臣秀吉に通じた疑いにより、信雄に殺害される。
浅井 長政 あざい ながまさ  近江国小谷城主。尾張国美濃国を平定した織田信長の妹お市の方と婚姻関係を結び、織田家と同盟関係となった。しかし、信長の越前侵攻が始まると以前より同盟関係にあった朝倉氏と協力し、信長と対立するも、敗れる。信長に小谷城を包囲され、落城寸前に妻お市と娘3姉妹を落ち延びさせる。3姉妹の長女は茶々(後の淀殿)。次女は京極高次の妻、初殿。3女は徳川秀忠の妻、小督
浅井 久政 あざい ひさまさ  近江国小谷城主。京極氏・六角氏らの勢力により圧迫されて苦境にあた。1560年(永禄3年)子の長政に家督を譲り、隠遁した。小谷城落城の際には、子長政と同様に運命を城とともにした。
浅井 万福丸 あざい まんぷくまる  1573年(天正元年)織田信長により小谷城が落城させられると、家臣団に匿われ逃走するが、信長の探索により捕らえられる。羽柴秀吉の手により磔刑に処せられる。享年は10歳とも伝わる。
朝倉 義景 あさくら よしかげ  戦国大名としての朝倉氏5代当主。はじめ孫次郎延景と名乗ったが、足利義輝から義の字を与えられ義景と改めた。1565年(永禄8年)義輝が松永久秀らに殺されると弟の足利義昭を越前一乗谷に迎え、同地で元服させた。その後、義景は織田信長と対立し信長包囲網の一翼を担うが、義景の怠慢な軍事行動によりついに信長を滅ぼすことができず、逆に信長により滅ぼされてしまう。
浅野 長政 あさの ながまさ  豊臣秀吉の家臣。五奉行の一人。浅野家の養子となり、1573年(天正元年)浅井長政討滅の戦いに初陣。豊臣秀吉に属し、賤ヶ岳の戦いに功績があり、京都奉行になる。徳川家康暗殺の容疑をかけられるが、関ヶ原の戦いでは家康を支持。1611年(慶長16年)4月7日下野塩原温泉で死去。享年65歳。
浅野 幸長 あさの よしなが  長政の嫡男。1590年(天正18年)小田原の役が初陣。父と共に岩槻城を攻める。朝鮮の役では文禄・慶長の役共に出兵し、活躍をする。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、紀伊和歌山37万石を領する。のちに加藤清正と協力し、徳川家康豊臣秀頼の会見を実現させた。 1613年(慶長18年)8月25日和歌山で死去。享年38歳。
  朝比奈 信置 あさひな のぶおき  駿河国持舟(用宗)城主。先方衆(駿河衆)。当初、今川氏に仕えるも、今川氏真没落後、甲斐国武田信玄に仕える。1582年(天正10年)、徳川軍の攻撃を支えきれず、2月21日開城。4月8日織田信長の命により自刃。
朝比奈 泰朝 あさひな やすとも  遠江国掛川城主。朝比奈泰能の子。1568年(永禄11年)武田信玄によって駿府を追われた今川氏真掛川城に迎えて防戦。翌年5月に講和、開城。氏真に従って伊豆国戸倉城へさらに相模原小田原城に逃れたと伝える。 武田家臣団
朝比奈 泰煕 あさひな やすひろ  遠江国掛川城主。今川氏親に仕えた。
朝比奈 泰能 あさひな やすよし  遠江国掛川城主。朝比奈泰煕の子。
旭姫 あさひひめ  豊臣秀吉の異父妹。はじめ尾張国の武士佐治日向守(あるいは副田甚兵衛など諸説ある)に嫁す。1586年(天正14年)小牧・長久手の戦いののち、徳川家康との提携をもくろむ秀吉の命により離別、家康の正室となる。1589年(天正17年)母の病気見舞いと称し、上洛。そのまま京都にとどまり、1590年(天正18年)1月14日聚楽第で没する。享年48歳。
  浅利 信種 あさり のぶたね   御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。甲州八代群浅利郷領主。1569年(永禄12年)10月8日北条氏政軍との相模国三増峠合戦で討死。 武田家臣団
足利 成氏 あしかが しげうじ  初代古河公方。
足利 茶々丸 あしかが ちゃちゃまる  堀越公方足利政知の子。1491年(延徳3年)4月に父政知が死去すると、異母弟潤童子とその母を殺し、家督を奪った。その内紛に乗じ、出兵した北条早雲に伊豆国は制圧され茶々丸は自害し、堀越公方は滅亡した。
足利 晴氏 あしかが はるうじ  古河公方。1539年(天文8年)北条氏綱の娘と晴氏は結婚した。しかし、1545年(天文14年)上杉憲政に合力して北条氏の武蔵国河越城を攻めたが、、敗れ古河に帰った。1552年(天文21年)には隠居したが、1554年(天文23年)北条氏康に反抗し捕らえられて相模国秦野に幽閉され、のち下総国関宿城に移り没した。
足利 政知 あしかが まさとも  初代堀越公方。関東回復にしばしば古河公方足利成氏と戦ったが、勢威が振るわず、1482年(文明14年)伊豆国を政知の領国とすることで成氏と和睦した。
足利 義秋 あしかが よしあき  =足利義昭
足利 義昭 あしかが よしあき  還俗して義秋。のち義昭。織田信長の助力を得て、室町幕府15代将軍に就任する。しかし、実権は信長にあり、自分は傀儡であることを知ると、各地の大名に書状を送り信長包囲網を敷くなど、信長との対立を深める。のち義昭自身挙兵するが、信長に見事に敗れ、京を追われる。追放後は毛利氏に身を寄せる。豊臣秀吉の統一政権下、招かれて帰京した義昭は山城国槇島に住み1万石を与えられた。1597年(慶長2年)8月28日没。享年61歳。
足利 義輝 あしかが よしてる  元服して義藤。のち義輝と改名。室町幕府13代将軍。剣豪家としても知られる。大名相互間の調停者として講和実現に求心的役割を演じるなど将軍権威の回復に努めた。1565年(永禄8年)5月19日松永久秀らに急襲され、自らも抜刀して奮戦したが、敗れて自殺した。享年30年。
足利 義晴 あしかが よしはる  室町幕府12代将軍。
足利 義藤 あしかが よしふじ  =足利義輝
芦田 信守 あしだ のぶもり  先方衆(信濃衆)。信濃国芦田城主。武田信玄に仕え、1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦い後、遠江国二俣城に入る。1575年(天正3年)5月長篠合戦後、徳川軍に城を包囲され、6月19日城内で病死。 武田家臣団
蘆名 盛隆 あしな もりたか  奥州蘆名氏第18代当主。1584年(天正12年)家臣に暗殺される。
蘆名 義広 あしな よしひろ  盛重、義勝。父は佐竹義重。母は伊達晴宗の娘。盛隆の嫡男亀王丸が没した後、重臣間に伊達政宗の弟と義広、いずれを後継ぎにするかで争うが、義広が継ぐこととなる。蘆名家の当主となった義広は佐竹氏と同盟し、伊達氏と対立し戦う。1589年(天正17年、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達軍に敗北し、父の実家である常陸の佐竹家へ逃れた。 その後、豊臣秀吉により江戸崎(茨城)に四万五千石を与えられ、1602年(慶長7年)、佐竹氏の国替えにともなって 秋田に移り、角館に一万五千石を分け与えられた。
阿茶局 あちゃのつぼね  徳川家康の側室。1579年(天正7年)から家康に近侍し、阿茶局と称された。子はなかったが、大坂の陣に際して東西間の交渉にあたるなど政治的側面で家康を介助した。
跡部 勝資 あとべ かつすけ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。大炊助。武田信玄勝頼に仕える。1582年(天正10)年3月、武田氏滅亡の際は諏訪で討死をしている。 武田家臣団
跡部 勝忠 あとべ かつただ  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。勘定奉行を勤め、戦陣にあっては軍隊の糧秣の徴発などを行った。生没年不詳。 武田家臣団
穴山 信君 あなやま のぶきみ  =穴山梅雪
穴山 梅雪 あなやま ばいせつ  武田氏の家臣。名は信君。母は武田信玄の姉という。甲州下山(身延町辺)を領した。そして、信玄の娘を夫人とした。信玄は江尻城を築いて梅雪に守らせた。徳川・織田連合軍との長篠の合戦の敗戦後、没落の一途を辿る武田家を梅雪は見限り、徳川家康の勧告に応じ、江尻城を引き渡した。武田氏滅亡後、織田信長は武田氏の将士を誅したが梅雪は助けた。そのお礼に1582年(天正10年)5月15日に安土城で信長に拝謁した。5月21日家康と梅雪は堺に赴くために安土を立ち、そこで本能寺の変を知る。直ちに帰国の途につくが、途中山城国宇治で土民の一揆によって殺された。
尼子 勝久 あまご かつひさ  出雲の戦国大名・尼子氏の一族。富田城が陥落して尼子氏が滅ぶと、山中幸盛らに擁立されて還俗、出雲に入って富田城奪還を目指したが失敗。その後、山名氏に組して因幡に戦い、最後は羽柴秀吉の中国攻めに加わって播磨上月城にはいるが、毛利軍に包囲されて自害、尼子再興はかなわなかった。
天野 景貫 あまの かげつら  当初今川家に仕え徳川氏と戦うが、1569年(永禄12年)徳川氏に降服して、徳川家に仕える。のち武田氏仕えて、再び徳川氏と戦う。武田氏滅亡後は北条氏直に属した。
天野 藤秀 あまの ふじひで   =天野景貫 武田家臣団
甘利 虎泰 あまり とらやす  御譜代家老衆。甲斐国武田氏の家臣。甲州巨摩群甘利郷の領主。板垣信方と共に最高職位とされる「両職」を務める。1542年(天文11年)3月小笠原・諏訪・村上・木曽氏の連合軍を迎え撃ち破った信濃国瀬沢の戦いで負傷。1548年(天文17年)2月村上義清との上田原合戦で討死。 武田家臣団
甘利 信忠 あまり のぶただ  御譜代家老衆。晴吉昌忠とも言われる。父虎泰が上田原合戦で討死後、家督を継ぐ。1575年(天正3年)三方ヶ原の戦いで徳川軍の側面を突き、戦功を挙げるも戦後まもなく死去したと伝えられる。そのため、生没年は不詳。 武田家臣団
綾子 あやこ  =仙桃院
荒木 村重 あらき むらしげ  織田信長の臣。信長からその豪胆ぶりを愛されるも、毛利家に内通の疑惑を掛けられ、そのまま信長に背く。居城有岡城を包囲されるも、わずかな供回りだけで脱出をして、晩年は茶人として生き残る。 織田家臣団
荒木 村次 あらき むらつぐ  荒木村重の息子。明智光秀の娘を妻としたが、1578年(天正6年)父村重織田信長に背いたとき離別した。1584年(天正12年)の賤ヶ岳の戦いには豊臣秀吉に属して戦った。
有馬 豊氏 ありま とようじ  豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に仕える。関ヶ原の戦いで活躍し、丹後国福知山城を与えられる。その後の大坂の陣でも活躍し、筑後国久留米城に移る。茶人としても有名で利休七哲の一人に挙げられる。
安国寺 恵瓊 あんこくじ えけい  安芸武田氏の子。武田家滅亡時に逃れ出家。外交僧を務めた。織田信長豊臣秀吉の将来を予言した事で著名。関ヶ原合戦で西軍に属し、1600年(慶長5年)10月1日、京都六条河原で斬首された。
安藤 守就 あんどう もりなり  伊賀守。西美濃三人衆の一人。初め、斎藤家に仕えるも織田家に引き抜かれて、その後は織田家の将として働く。
 姉川の合戦では、横山城の押さえとして陣を布いていたが、織田家が劣勢であわやというときに、姉川の地に参陣して織田・徳川連合軍を勝利に導く。
 その他各地を転戦するも、1578年(天正10年)8月安藤父子は武田方への内通の罪により突然追放される。本能寺の変後の混乱に乗じて、安藤父子は旧城北方に拠って、地位の回復を図ったが、稲葉良通父子に攻められ、討死した。
織田家臣団
ア音
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