最近出かけたことがなかったので、車のナビで適当に検索して「阿寺の滝」へ行くことにした。その帰りに時間があったので、長篠城址へ寄ることにした。しかし、時間が遅かったので、博物館はちょうど閉館したところだった・・・。城跡の方は内堀、土塁などが残っている。小ぶりな城だが、河川に挟まれた地形が要害堅固な城にしている。このことは、大軍で一気に攻めかかれば、容易に落とせると見た武田軍が、予想以上に攻めあぐね、その結果、ついに落とせなかった長篠の合戦の前哨戦で身を持って後世に伝えている。

花見で桜淵公園に行き、その帰りに長篠城跡に立ち寄った。前に来たことはあったが、博物館が閉まっていたので、そのときは城跡だけを見ただけであった。今回は100名城スタンプをゲットする為に訪れたのだが、ここにも桜が咲いていて、とてもきれいだった。その後、馬防柵を見に古戦場跡に行った。土屋昌次の討死跡があった。織田氏、徳川氏の陣地跡はかなり広域に点在していたので、見て回ることをやめたが、合戦の規模の大きさについては、良く分かった。


本丸跡、土塁、空堀
菅沼元成
1508年(永正5年)
愛知県南設楽郡鳳来町長篠
平城
末広城
扇城
1508年(永正5年)今川氏の前線拠点として菅沼元成が築いた。1560年(永禄3年)今川義元が桶狭間の戦いにおいて討死したと共に長篠城は武田氏に属した。1573年(天正元年)徳川家康はこの城を攻略した。1575年(天正3年)家康は奥平貞昌を城主とした。間もなく武田勝頼が大軍をもって長篠城を攻める。貞昌以下城兵500人は武田軍1万5千に対して頑強に抵抗した。その間貞昌は鳥居強右衛門を救援依頼の密使として派遣する。この救援依頼を織田信長は承知したので、このことを伝えるために強右衛門は長篠城へ戻ろうとしたところ、武田方に捕らえられてしまった。武田方から援軍は来ないので、開城するように伝えるよう強要されたが、強右衛門は援軍がもう少しで来るから、あと少し頑張れと激励したので、強右衛門はそのまま磔にされ殺されてしまった。これを見聞きした城内は勇気百倍で援軍がくるまで長篠城を守り抜いた。このことが長篠の合戦の織田・徳川連合軍の大勝利につながった。合戦後、長篠城を守り抜いた功を評価され、奥平貞昌は織田信長より一字をもらい、奥平信昌と改名している。1576年(天正4年)長篠城は廃城となる。
| 年代 | 歴代城主 | |
| 1508年(永正5年) 〜 |
菅沼元成 | 1508年(永正5年)今川氏親の家臣菅沼元成が前線拠点として長篠城を築く。 |
| 菅沼俊則 | ||
| 菅沼元直 | ||
| 〜1569年(永禄12年) | 菅沼貞景 | 1561年(永禄4年)今川義元が桶狭間の合戦で討死した後、松平元康(家康)に属する。 1569年(永禄12年)徳川家康に従い、掛川城の攻略をするも、その最中貞景は天王山で討死。 |
| 1569年(永禄12年) 〜1573年(元亀4年) |
菅沼正貞 | 1571年(元亀2年)天野景貫、秋山信友に攻められて降服。以後武田信玄に属する。 1572年(元亀3年)武田方の山県昌景軍に属して、三方ヶ原の戦いに参戦する。 1573年(元亀4年)4月12日武田信玄が死去。武田信玄の死を確認し、徳川家康が8月に長篠城を奪回する。菅沼正貞は徳川方への内応を疑われ、牢屋閉じ込められる。奥平氏は武田氏から離脱して、徳川氏へ放逐。 |
| 1575年(天正3年) 〜1576年(天正4年) |
奥平貞昌 | 1575年(天正3年)2月徳川家康は奥平貞昌を城主として任命。 武田勝頼が長篠城奪回のために、城兵500名に対して1万5千の軍で長篠城に襲いかかる。長篠城の急を聞きつけて織田・徳川連合軍が援軍として参戦。5月21日武田軍と設楽原において戦闘(長篠の戦い) 1576年(天正4年)長篠城は廃城となる。 |