| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| ★ | 内藤 昌豊 | ないとう まさとよ | 御譜代家老衆。甲斐国武田氏の臣。初め工藤源左衛門と名乗る。武田信玄から50騎持を命ぜられて以来、内藤姓を名乗る。上野国箕輪城代に任命されて以降、三増峠の戦いにも参戦。1575年(天正3年)長篠の戦いで戦死。 | 武田家臣団 |
| ★ | 内藤 昌秀 | ないとう まさひで | =内藤昌豊 | 武田家臣団 |
| 直江 兼続 | なおえ かねつぐ | 上杉謙信に見出され景勝の側近となる。1578年謙信の後継者争いの御館の乱で景勝を勝利に導いた兼続はより一層、景勝の信頼を得て、政務から軍務に至るまで上杉家の中核として身を粉にして働いた。1600年(慶長5年)、豊臣秀吉、前田利家といった武将が死去すると、今まで鳴りをひそめていた徳川家康が幅を利かすようになっていった。しかし、そんな家康に昂然と立ち向かい、必勝の構えで臨んだにも関わらず、関ヶ原での西軍敗北に上杉家は関ヶ原に勝利した家康に敵対した罪を問われ、会津120万石から米沢30万石に減らされてしまう。晩年は徳川幕府に忠実に従い、1619年(元和5年)江戸で死を迎える。享年60歳。 | ||
| 長井 道利 | ながい みちとし | 斎藤氏滅亡後、織田信長に仕えた。1571年(元亀2年)、将軍足利義昭が信長と兵を構え、和田惟政が荒木村重の臣池田知正と交戦したとき惟政の救援に出兵し、8月28日摂津国白河河原で敗死した。 | 織田家臣団 | |
| 長尾 景虎 | ながお かげとら | =上杉謙信。 | ||
| 長尾 景長 | ながお かげなが | 山内上杉氏の家宰。画図の技に長じ自画像や山水画の作品がある。 | ||
| 長尾 為景 | ながお ためかげ | 越後国守護上杉房能の養嗣子上杉定実を擁して兵を挙げ、房能と戦って房能を戦死させている。1510年(永正7年)房能の兄関東管領上杉顕定を越後国長森原にて敗死させた。ここに越後の国政を掌握したが、やがて定実との不和が表面化し定実方の諸将の反乱が相次いだ。1536年(天文5年)8月長子晴景に家督を譲り、同年12月24日病没。一説に越中国栴檀野(せんだんの)の戦いに敗死したとも言われている。 | ||
| 長尾 晴景 | ながお はるかげ | 長尾為景の嫡子。1536年(天文5年)家督を継承するが、病弱であり武将としての器量がなかったため諸将が従わず、越後国中部の長尾家領の確保と諸将牽制のため、弟景虎を栃尾城へ派遣した。また、一族の上田長尾氏を警戒し、妹仙桃院を長尾政景に嫁がせた。1548年(天文17年)守護上杉定実の調停により家督を景虎に譲った。1552年(天文22年)2月10日死去。 | ||
| 長尾 政景 | ながお まさかげ | 越後上田庄坂戸(うえだのしょうさかと)城主。上杉謙信の姉綾子(あやこ)を妻とし、勇武をもって知られる。しかし、謙信の下風に立つのを嫌っていたため、そのことに感づいた同じ上杉家中の宇佐美定満により、1564年(永禄7年)野尻湖で、宇佐美定満と共に溺死させられる。 | ||
| 中川 清秀 | なかがわ きよひで | 1572年(元亀3年)和田惟政を討取る。1578年(天正6年)織田信長に仕え、荒木村重の配下となる。村重が信長に背いてからは羽柴秀吉に属し、1582年(天正10年)山崎の戦いでは功があったが、翌1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いで大岩山砦を守備していたが、佐久間盛政の強襲をうけ、4月20日討死。享年42歳。 | ||
| 長野 具藤 | ながの ともふじ | 北畠具教の次男。1558年(永禄元年)北畠・長野両氏の和議が成立し、長野藤定の養子となり長野家を継いだ。1559年(永禄2年)長野一族の兵を率いて三重郡塩浜で赤堀氏と戦ったが敗れ、また関氏の神戸西城を攻めたが敗れた。1568年(永禄11年)織田信長が中伊勢に侵攻し長野氏は和戦両論分かれた。1569年(永禄12年)長野一族は信長の弟信包を長野家の宗主とすることに決定し、織田氏の幕下に入った。しかし、1576年(天正4年)11月具藤は織田信雄によって田丸城で北畠一族とともに殺された。 | ||
| 長野 業盛 | ながの なりもり | 上野国箕輪城主。武田信玄に攻められ、1566年(永禄9年)11月10日落城して自害。享年21歳。 | ||
| 長野 藤定 | ながの ふじさだ | 伊勢国の有力国人長野工藤家第15代。天文年間(1532年〜1555年)北畠氏と攻防が続いたが、1558年(永禄元年)北畠具教の次男具藤を養嗣子にすることで長野氏・北畠氏の長きにわたる抗争が終焉を迎えたが、長野氏は北畠氏の支配下に入ることとなった。 | ||
| 中村 一氏 | なかむら かずうじ | 豊臣秀吉の家臣。1578年(天正5年)8月、天王子城で大坂本願寺門跡派の一揆を破り、その功により1584年(天正12年)岸和田城主となる。1585年(天正13年)6月四国征伐の功により、近江国水口城主となる。1590年(天正18年)の小田原の役には山中城の攻め手に加わり、その功により、駿河国駿府城主を務める。1598年(慶長3年)7月中老職となる。関ヶ原の戦いのおりには東軍に属するも、突如発病し、7月17日死去。 | ||
| 中村 一忠 | なかむら かずただ | 中村一氏の子。関ヶ原の戦いにおいては、急逝した父の志をつぎ東軍に属す。戦後は伯耆国米子へ加増転封。1609年(慶長14年)5月11日死去。享年20歳。 | ||
| 中村 一栄 | なかむら かずひで | 中村一氏の弟。関ヶ原の戦いの前哨戦杭瀬川の戦いにおいては、西軍の島左近に敗れている。 | ||
| 長屋 景重 | ながや かげしげ | 金森可重の父。 | ||
| 長束 正家 | なつか まさいえ | 大蔵大輔。五奉行の一人。はじめ、丹羽長秀・長重に仕えた。1585年(天正13年)7月奉行職につき、手腕を発揮し、近江国水口城主となる。関ヶ原の戦いの折には、西軍に属し伊勢口を固めた。9月15日会戦のおりには南宮山に陣取るも、吉川広家に遮られ、帰城。10月3日池田長吉に欺かれ、城を出てしまい、近江国桜井谷で自殺。 | ||
| 並河 易家 | なみかわ えきいえ | 掃部。丹波衆。1576年(天正4年)の黒井城攻めの際、赤井・波多野の「呼び込み戦法」で明智軍が潰走した際に光秀を先導して無事京に帰還させたという。また八上城落城後は同城城代になるという。山崎では山手右翼先陣を務める。合戦中戦死。 | 明智家臣団 | |
| 南部 勝利 | なんぶ かつとし | 但馬守。=林通勝 | 織田家臣団 | |
| 南部 信直 | なんぶ のぶなお | 南部家26代当主。家督相続の際には御家騒動に巻き込まれるが、見事勝利を収め家督を継ぐ。九戸政実の乱などに苦しむが豊臣秀吉に接近して領内を統一した。 | ||