ホ音
武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
穂井田 元清 ほいだ もときよ  毛利元就の4男。穂井田家の家督を継ぐ。尼子家との戦いを各地で転戦。1583年(天正11年)毛利氏を名乗る。1597年(慶長2年)安芸郡広島で死去。
芳春院 ほうしゅんいん  前田利家の正室。1558年(永禄元年)頃、利家に嫁す。嫡子利長をはじめ11人の子女に恵まれる。また、豊臣秀吉の正室高台院とは懇意の中であった。1599年(慶長4年)利家の死後、落飾して芳春院と称す。その後、徳川家から前田家を守るため、15年間江戸で人質生活を過ごし、利長の死を機に金沢へ戻る。1617年(元和3年)7月16日金沢で没する。享年71歳。
北条 氏綱 ほうじょう うじつな  小田原北条氏第2代。北条早雲の子。1518年(永正5年)家督を相続。本城を韮山から小田原に移し、1524年(大永4年)ごろに伊勢氏から北条氏に改姓。周囲の敵対勢力を駆逐し着実に領土を広げる。1539年(天文8年)には娘を古河公方足利晴氏に嫁がせる。1541年(天文10年)7月17日逝去。
北条 氏照 ほうじょう うじてる  北条氏康の2男。北関東進出に大きく活躍した。八王子城に入る。小田原の陣後、兄氏政とともに豊臣秀吉より切腹を命じられ、7月11日自刃。
北条 氏直 ほうじょう うじなお  小田原北条氏第5代。北条氏政の子。本能寺の変後、織田領の上野国に出兵し大部分を平定する。その後徳川家康と対峙するが、家康の娘との婚姻を約して和議が成立する。豊臣秀吉とは徹底抗戦をするも、籠城3ヶ月後降伏。高野山に追放された。1591年(天正19年)秀吉から1万石を与えられたが、11月4日病死した。これにより小田原北条氏は断絶した。
北条 氏規 ほうじょう うじのり  北条氏康の4男。幼児期に今川氏の人質として駿府に居在し、のちの徳川家康と親交があった。1588年(天正16年)北条氏直に代わって上洛、豊臣秀吉と北条氏の和睦に努力した。小田原の陣の折には韮山城に籠城するが、徳川家康の説得に応じて、開城。開城後小田原城に赴き、氏直に和平を勧めた。小田原城落城後は氏直に従い、高野山に行く。1591年(天正19年)より秀吉に仕えるようになる。1600年(慶長5年)2月8日死去。
北条 氏秀 ほうじょう うじひで  =上杉景虎
北条 氏房 ほうじょう うじふさ  北条氏政の三男。武蔵岩槻城主。小田原の陣の折には小田原城に入城。小田原城落城後、高野山に上る。
北条 氏政 ほうじょう うじまさ  小田原北条氏第4代。北条氏康の長男。上杉氏の度重なる関東出兵を退け、上野南部に勢力を拡大。1568年(永禄11年)末からは駿河国に侵攻した武田信玄と戦い、上杉氏と越相同盟を結んだ。父の死後上杉氏と絶って再び信玄と結び、以後北関東への勢力拡大に専念。豊臣秀吉の上洛命令に応ぜず、1590年(天正18年)秀吉と戦ったが降伏。秀吉に切腹を命じられ7月11日自刃した。
北条 氏康 ほうじょう うじやす  小田原北条氏第3代。北条氏綱の子。扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を越後国に追うなど旧勢力を駆逐・掌握した。上杉謙信武田信玄の侵攻を退け、上野国南部まで勢力を拡大した名将。1571年(元亀2年)10月3日死去。
北条 玄庵 ほうじょう げんあん  北条早雲の3男。文人として知られる。1589年(天正17年)11月1日死去。
北条 早雲 ほうじょう そううん  出自は不詳。1476年(文明8年)駿河国今川氏の家督相続の調停に乗出し、その功により駿河国興国寺城を与えられる。その後伊豆に攻入り足利茶々丸を討ち伊豆を平定。韮山城を拠点とし、山内・扇谷上杉氏の対立を利用してたびたび武蔵国相模国に攻入り、1516年(永正13年)三浦氏を滅ぼして相模一国をほぼ平定した。1519年(永正16年)8月15日韮山城で死去。
保科 正俊 ほしな まさとし  甲斐国武田氏の家臣。信濃国高遠城主。天文年間末期に武田氏に仕えた。「槍弾正」と言われた勇士。のち徳川氏に仕え1593年(文禄2年)死去。
保科 正直 ほしな まさなお  正俊の子。信濃国高遠城主。はじめ武田信玄勝頼父子に仕えた。織田信長甲斐国侵攻の際に織田家に降伏した。本能寺の変後、北条氏の属将となった。のち徳川家康が甲斐をあわせ北条氏と対立したこと、正直の反対は小笠原家が豊臣秀吉についたことにより、正直は家康に仕えた。1601年(慶長6年)9月29日高遠城にて死去。享年60歳。
保科 正光 ほしな まさみつ  正直の長子。信濃国高遠城主。父正直と共に徳川家康に仕えた。家康に従い各地を転戦。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際、は徳川家康に属し浜松城の守備を命ぜられ、戦後、越前一国の支配を命ぜられた。この年11月多胡から旧領高遠城主となり、二万五千石を与えられる。1631年(寛永8年)10月7日死去。享年71歳。
細川 興秋 ほそかわ おきあき  細川忠興の長男。母は明智光秀の娘ガラシャ。最初長岡姓を名乗る。関ヶ原の合戦に戦功をたてる。1605年(慶長10年)人質として江戸に行く途中に逃れて、大坂夏の陣では、豊臣秀頼に属し、大坂城に籠った。1615年(元和元年)父の怒りをうけ、山城国東林院で自害。
細川 ガラシャ ほそかわ ガラシャ  細川忠興の正室。明智光秀の娘。1578年(天正6年)に忠興に嫁ぐ。しかし、父光秀1582年(天正10年)に本能寺の変を引き起こしたため、夫忠興により、一時丹後国三戸野に幽閉される。1584年(天正12年)忠興と復縁し、のちにキリスト教に帰依する。忠興との間に忠隆興秋忠利、2女をもうける。また、ラテン語、ポルトガル語なども習得していたというので、まさに才色兼備の女性だった。1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦前に石田三成からの人質になる旨を拒否。大坂の細川屋敷で38歳の生涯を閉じる。
細川 忠興 ほそかわ ただおき  細川藤孝の嫡子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は、羽柴秀吉に応じる。その後秀吉と共に各地を転戦。秀吉死後関ヶ原の戦いでは東軍に属す。1602年(慶長7年)豊前国小倉39万9千石に移封される。1620年(元和6年)嫡子忠利に家督を譲り、1645年(正保2年)12月八代で死去。
細川 忠隆 ほそかわ ただたか  細川忠興の長男。母は明智光秀の娘ガラシャ。最初長岡姓を名乗る。1598年(慶長3年)従四位下侍従に叙任し、羽柴の姓を許されている。岐阜攻め、関ヶ原の戦いに戦功を立てる。しかし、母が自刃したとき、忠隆の室は逃がされたので、父忠興は後を追うように命じたが、拒んだため父の命に背くとして放逐された。これを恥、忠隆は室と離縁し、出家、蟄居する。
細川 忠利 ほそかわ ただとし  細川忠興の3男。母は明智光秀の娘ガラシャ。父同様、最初長岡姓を名乗り、のちに細川姓に改める。二人の兄廃嫡ののち家督を継ぐ。1637年(寛永14年)島原の乱に参戦。1641年(寛永18年)熊本で死去。
細川 藤孝 ほそかわ ふじたか  1565年(永禄8年)幽閉されていた足利義昭を脱出させ、織田信長に依頼し、ともに奉じて上洛、大和・郡山城を転戦する。本能寺の変後、剃髪し家督を嫡子忠興に譲り羽柴秀吉に応じる。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍に居城を攻囲された。また、当時一流の文化人としても知られる。
堀田 道空 ほった どうくう  斎藤家家臣。詳細は不明。古くから斎藤道三に仕えてその家老を務めており、美濃国尾張国の領地の仲立ちについて奔走していた。1553年(天文22年)の道三織田信長の正徳寺の会見に随行したことが知られている。
堀 直政 ほり なおまさ  はじめ従兄弟の秀政と共に織田信長に仕え、美濃国斎藤氏攻めなど、信長の主要な合戦の大半に参加して活躍した。信長の死後、秀政と共に羽柴秀吉に従った。1582年(天正10年)明智秀満近江国坂本城に攻略した。1590年(天正18年)秀政死去後、その子秀治を補佐した。関ヶ原の戦いでは、上杉景勝援軍の一揆を鎮圧した。1608年(慶長13年)2月26日死去。享年62歳。
堀 秀治 ほり ひではる  堀秀政の長男。1590年(天正18年)秀政の死去に伴い、家督を継ぐ。その後朝鮮の役に従軍。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、上杉景勝援軍の一揆を鎮圧した。1606年(慶長11年)5月26日死去。享年31歳。
堀 秀政 ほり ひでまさ  通称は久太郎。初め美濃斎藤氏に仕え、次いで織田信長豊臣秀吉に仕えた。攻城野戦の先鋒として越前の一向一揆鎮定などに転戦、信長から近江坂田郡2万5千石を与えられて長浜に居城した。1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いに功をあげ、近江佐和山城9万石。1585年(天正13年)かさなる軍功を賞せられ、越前北庄18万石余に封じられた。1590年(天正18年)小田原征伐にも先鋒として出陣したが、早川口の陣中に病没した。
堀尾 忠氏 ほりお ただうじ  堀尾吉晴の次男。関ヶ原の合戦の前哨戦瀬田川の戦いに功があった。のち出雲国・隠岐24万石に移封。1604年(慶長9年)8月4日父に先立ち夭折。享年27歳。
堀尾 忠晴 ほりお ただはる  堀尾忠氏の子。1604年(慶長9年)に家督を相続。幼少のため国政は吉晴がみる。大坂の陣には東軍に与して従軍。1633年(寛永10年)9月24日死去。享年35歳。嗣子がなく断絶。
堀尾 吉晴 ほりお よしはる  豊臣秀吉の家臣で、1573年(天正元年)近江長浜に百石を得て、以後播磨、丹波、若狭、近江などに所領を与えられた。1590年(天正18年)小田原征伐には山中城を攻撃、その功により豊臣姓を許され、遠江浜松12万石に加増移封。秀吉の死後、豊臣家の中老職となり、1598年(慶長3年)徳川家康石田三成の対立の際和議に努力。1599年(慶長4年)家督を子の忠氏に譲る。1604年(慶長9年)忠氏死去のため、出雲にあって孫の堀尾忠晴を補佐した。
 穏和な人柄で人望があり、『仏の茂助』と称された。
本願寺 顕如 ほんがんじ けんにょ  本願寺第11世。1570年(元亀元年)顕如は全国統一を目指す織田信長と全面戦争に入り、武田家・上杉家・北条家・毛利家・朝倉家・浅井家と結び各地で徹底抗戦を繰り広げた。さすがに信長もこの徹底抗戦には肉親・重臣を亡くすなど無傷ではいられなかった。しかし、連合軍も信長の各個撃破の戦法により、次々と撃破される。本願寺の戦いも顕如の降伏により、10年という歳月を持って終焉を迎える。
本庄 繁長 ほんじょう しげなが  上杉謙信の父、長尾為景上杉房能に背いたときに名を馳せる。のち謙信に臣従して川中島の戦い、関東征伐に功があった。1568年(永禄11年)武田信玄への内通の疑いから攻められ、降伏。その後上杉景勝の家督相続を助ける。一時期浪人となったが、上杉家の会津移封後再び帰参。1613年(慶長18年)12月20日死去。享年75歳。
本多 重次 ほんだ しげつぐ  徳川家家臣。三河国平定に尽力し、1565年(永禄8年)奉行を命じられる。1586年(天正14年)、豊臣秀吉の母大政所の下向に際し、警備を命じられたが、冷遇したため秀吉の怒りをかった。1590年(天正18年)の関東入封の折りに、閉居を告げられ、1596年(慶長元年)7月16日死去。享年68歳。
 また、日本一短い手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の作者でも知られる。 
本多 忠勝 ほんだ ただかつ  1560年(永禄3年)、忠勝13歳のときに桶狭間の前哨戦ともなる大高城への兵糧入れを初陣から、関ヶ原の合戦までの数えること、57度の合戦に参加するも、かすり傷ひとつ負わなかった武勇の持ち主。57度の戦いの中には主君、家康が大敗北を喫した三方ヶ原、その前哨戦一言坂(ひとことざか)の戦いで敵方の武田家からも家康に過ぎたるものの一つに挙げられた程、他家も認める武将であった。また、徳川家臣団の中でも徳川四天王の一人に挙げられる程、重きを成す武将であった。1610年(慶長15年)10月18日死去。享年63歳
本多 忠政 ほんだ ただまさ  本多忠勝の長男。小田原の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣に参加。その間1610年(慶長15年)に家督を継ぐ。1617年(元和3年)姫路城で15万石を与えられる。1631年(寛永8年)8月19日、江戸出府の際に死去。享年57歳。
本多 広孝 ほんだ ひろたか  徳川家家臣。1564年(永禄7年)三河国田原城を与えられ多くの戦功をたてる。家康の関東移封で上野国白井で1万2千石を領した。1596年(慶長元年)12月27日死去。享年70歳。
本多 正純 ほんだ まさずみ  正信の嫡男。徳川家康に仕え、駿府城付の年寄を務める。内政・外交に活躍、下野宇都宮15万石を領すが、突如、改易された。
本多 正信 ほんだ まさのぶ  徳川家家臣。三河一向一揆に身を投じて主家を離反、諸国を放浪したのちに帰参。徳川家康の謀臣として行政と謀略に優れた手腕を発揮した。主君・家康には「友」と呼ばれたという。
本多 康重 ほんだ やすしげ  徳川家家臣。本多広孝の子。姉川、三方ヶ原、長篠の合戦などに従軍。1590年(天正18年)家康の関東移封に伴い、上野国白井城2万石を与えられる。1601年(慶長6年)には三河国岡崎城で5万石を与えられる。1611年(慶長16年)3月22日死去。享年58歳。
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