明智光秀、関係年表
大永8年 1528年 (0歳)
 この年、明智光秀が生まれたとされる。
天文22年 1553年 (26歳)
 妻煕子(19歳)と結婚する。 
弘冶2年 1556年 (29歳)
8月5日  明智城に斎藤道三を討った義龍軍が攻撃開始する。
9月26日  明智城が落城する。光秀の叔父光安が運命を城と共にする。光秀は城から脱出する。
永禄9年 1566年 (39歳)
 足利義秋(後の義昭)が一乗谷へ亡命。義秋の幕臣となる。
永禄10年 1567年 (42歳)
 足利義秋と織田信長の仲介の労をとる。
永禄11年 1568年 (41歳)
7月27日  朝倉家を致仕する。足利義昭を立政寺で織田信長と会見させる。
永禄12年 1569年 (42歳)
この年の
出来事
 三好三人衆、京都本圀寺の足利義昭を襲撃するも、光秀らが撃退する。
 織田信長より羽柴秀吉とともに二条の御所の普請を命じられ、京の奉行に任じられる。
元亀2年 1571年 (44歳)
この年の
出来事
 比叡山焼き討ち後、織田信長より近江国滋賀郡を与えられる。
元亀3年 1572年 (45歳)
正月の
出来事
 この頃より坂本城の着工が始まる。
3月の
出来事
 織田信長に従い、志賀郡北部の木戸・田中の両城を下す。
4月の
出来事
 柴田勝家らと共に摂津国河内に転戦する。
7月の
出来事
 小谷攻めに従軍
天正元年 1573年 (46歳)
2月29日  織田信長に命じられ、本願寺勢が籠る今堅田城を攻略する。
天正2年 1574年 (47歳)
正月11日  岐阜での年賀の挨拶を終え、大和国郡山城に入る。
2月1日  東美濃に侵略してきた武田勝頼を討つため、織田信長と共に東美濃に出陣する。
この年の
出来事
 織田信長の命により、息子定頼を筒井順慶の継嗣とし、娘玉子を細川藤孝の嫡男忠興に嫁さしめることを約す。
天正3年 1575年 (48歳)
6月の
出来事
 織田信長より丹波攻略を命じられる。
7月3日  惟任日向守に任ぜられる。
8月23日  越前攻めが丹波攻略より優先され、越前国制圧後、羽柴秀吉と共に先鋒となり、加賀国へ攻め込む。
9月23日  坂本へ帰陣。
天正4年 1576年 (49歳)
1月15日  荻野直正が拠る黒井城攻めの最中に波多野秀治が光秀に背き、八上城に引き上げる。
1月21日  黒井城を包囲していた明智軍、八上城の波多野秀治の攻撃をかわし、摂津国を抜けて、坂本に帰陣した。
2月の
出来事
 丹波攻略中織田軍に合力した国人・土豪衆を助けるために兵を丹波に送る。(3月まで行う。)
4月の
出来事
 石山本願寺攻めをより命じられ、出陣。
5月11日  石山本願寺攻めの最中に天王寺の陣所において、病で倒れる。 
11月7日  光秀平癒後、妻煕子が病没。(享年42歳)
天正5年 1577年 (50歳)
8月17日  天王寺砦の守備についていた松永久秀久通父子が織田信長に謀叛を起こし、大和国信貴山城に籠城する。
10月3日  総大将織田信忠の元、光秀、細川藤孝、筒井順慶らと共に信貴山城の攻撃に加わる。
10月10日  信貴山城に籠城中の松永久秀、自刃。(享年68歳)信貴山城は落城。
10月16日  細川藤孝・忠興父子らと共に丹波亀山城を攻撃する。
10月19日  丹波亀山城を降伏させる。
天正6年 1578年 (51歳)
2月の
出来事
 丹波亀山城の修復に着工する。
4月の
出来事
 織田信長より石山本願寺の転戦を命じられる。
5月の
出来事
 毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉を助けるため、播磨国へ出陣。
7月の
出来事
 坂本へ帰陣。
10月17日  織田信長の家臣荒木村重が謀反を起こす。
11月9日  荒木村重を攻撃するために織田軍の一軍団として摂津国に出陣する。
11月14日  織田軍が荒木村重の有岡城を攻撃する。
11月16日  高山右近が説得により、織田信長に下る。
11月24日  織田信長、摂津国刀根山に着陣し、荒木村重に同調する茨木城主中川清秀を誘降する。
12月11日  有岡城攻めを引き上げる。
天正7年 1579年 (52歳)
2月28日  八上城攻めのために丹波亀山城に入る。
6月2日  八上城に波多野秀治、秀尚兄弟の命を助けることと、光秀の伯母を人質として出すことを条件として、降伏するように勧告し、波多野兄弟はこれを受入れる。
6月4日  織田信長、降伏した波多野秀治、秀尚兄弟を光秀に一言の断りもなく、磔の刑に処す。
天正8年 1580年 (53歳)
8月の
出来事
 丹波国攻略の恩賞として29万石丹波国を織田信長より与えられて、近江国滋賀郡の5万石と合わせて34万石を領する。
天正9年 1581年 (54歳)
2月28日  織田信長、 麾下の諸将を招集し、内裏東側で盛大に馬揃えを行う。正親町天皇も見物。この行事の統括責任者を光秀が務める。
6月2日  18条にも及ぶ「明智光秀家中軍法」を制定した。
天正10年 1582年 (55歳)
3月5日  織田信長に従い、甲斐国に向けて安土を出陣。 
4月21日  武田軍と戦うこともなく、織田信長と共に安土に戻る。
5月15日  徳川家康、織田信長に招かれて安土に到着する。このときの接待役に光秀が命じられる。
5月17日  織田信長より徳川家康の接待役を途中で免じられ、出雲国・石見国への出撃の命を受け、安土より坂本に戻る。
5月27日  出陣の準備を整え、丹波国亀山城に入る。
5月28日  戦勝祈願のため、愛宕大権現へ参詣する。
6月1日  京へ出陣する。
6月2日  本能寺に宿泊中の織田信長を襲い、自刃に追い込む。続けて、二条御所に立てこもった信長の嫡男信忠をも自刃に追い込む。
 信長父子を討った後、溝尾庄兵衛を勝龍寺城へ入れる。
 瀬田城主山岡景隆、瀬田橋を焼き落し、甲賀へ逃げる。
6月3日  瀬田に到着するも瀬田橋が焼け落ち、安土へ向かえないことを知り、一端坂本城へ引き返す。
6月5日  焼け落ちた瀬田橋を修復し、長浜城佐和山城を落とし、安土城へ入る。
6月7日  勅使吉田兼見を安土城に迎える。
6月8日  坂本城に戻る。吉田兼見は京へ帰る。
6月9日  軍勢を率いて上洛。
6月10日  畿内を完全に制圧するために河内へ出陣。
6月11日  羽柴軍迎撃の準備に追われる。
6月13日  羽柴秀吉と天王山周辺、山崎の地で激突。(山崎の戦い)この戦いにより、光秀は秀吉に敗れ、一旦勝龍寺城へ引き上げる。深夜再起を計るため、坂本城へ向かう途中、小栗栖村で落武者狩りの土民の竹槍に重傷を負い、自刃する。享年55歳。
6月14日  明智光秀の敗報を知り、安土城の明智秀満が単騎湖水渡りを演じ坂本城へ退去する。