武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
菊姫 きくひめ  =大儀院
木曾 義昌 きそ よしまさ  信濃国木曾の領主。1555年(弘治元年)武田信玄に降り、信玄の娘を妻としたが、武田勝頼の代になり、織田信長に通じた。本能寺の変後は羽柴秀吉方に与した。1595年(文禄4年)3月13日没した。 武田家臣団
北条 高広 きたじょう たかひろ  越後国の国人。上杉謙信に仕えるも、武田氏、北条氏の誘いに応じ、幾度も謙信の下を離れている。しかし、最終的には上杉家に属するようになる。
北政所 きたのまんどころ  =高台院
北畠 具教 きたばたけ とものり  伊勢国司8代。晴具の長男。具教の代に北畠氏は勢力を拡大し、天文年間(1532年1555年)から安濃郡の長野氏と戦い、1558年(永禄元年)には和議を結び、次男具藤長野藤定の養子となる。織田信長伊勢国侵略戦には迎え撃ちよく守り抜いたが、1575年(天正3年)家督を信長の次男信雄に譲ることで講和を結ぶ。しかし、信長の意をうけた家臣に暗殺された。享年49歳。
北畠 具房 きたばたけ ともふさ  北畠具教の嫡子。1576年(天正4年)具教織田信長の次男で北畠家を継いだ信雄に殺され、北畠家が滅んだ時、滝川一益に預けられ3年間幽閉された。その後、解放されたが、1580年(天正8年)死去。
北畠 晴具 きたばたけ はるとも  伊勢国司7代。1518年(永正15年)足利義晴から「晴」の一字を拝領して改名。近江国京極氏を攻めたり、父の代から伊勢山田の神人層の対立に出兵したが、抑圧できずに長期にわたって抗争が続いた。和歌・連歌をよくし文化人で知られた。1563年(永禄6年)死去。享年61歳。
吉川 経家 きっかわ つねいえ  毛利氏の家臣。1581年(天正9年)3月18日毛利方の鳥取城将となり、同年7月12日羽柴秀吉軍の来襲により籠城する。兵糧攻めにあい同年10月25日城兵の命と引き換えに自刃。
吉川 広家 きっかわ ひろいえ  元春の三男。関ヶ原合戦で西軍の敗北を予想し、外交工作によって毛利家の存続をはかる。しかし宗家は防長2国に減封され、家中から裏切り者と非難された。
吉川 元春 きっかわ もとはる  毛利元就の次男。1547年(天文16年)吉川家の養子となる。その後兄隆元、弟の小早川隆景と共に、父元就を助け各地で戦功を挙げる。1586年(天正14年)11月15日九州の島津氏討伐の従軍中に豊前国小倉城で病没。享年57歳。
吉乃 きつの  織田信長の側室。はじめ美濃国可児郡の土田弥平治に嫁ぐも先立たれて、信長に嫁ぐ。土田弥平治信長にとって母の弟にあたる。
木下 家定 きのした いえさだ  豊臣秀吉の臣。秀吉の正室北政所の兄。
木下 藤吉郎 きのした とうきちろう  =豊臣秀吉
木村 重成 きむら しげなり  主君秀頼の小姓を務めた。大坂の陣の際には徳川家康の元に赴き、誓詞を受領した。大坂夏の陣で井伊直孝軍と戦い、討死した。
木村 親盛 きむら ちかもり  最上氏攻めの第二陣として横田旨俊篠井泰信らと上山城を攻めるが、最上軍との物見山の戦いで討死した。
京極 高和 きょうごく たかかず  忠高の異母弟の高政の長男。
京極 高次 きょうごく たかつぐ  近江国大津城主。はじめ浅井長政に従属する形をとっていたが、長政滅亡後、織田信長に仕える。本能寺の変後、明智光秀に応じて羽柴秀吉の所領長浜を攻撃し、京極氏の復興を期したが、光秀の敗死により越前若狭国に逃れた。しかし秀吉は高次の妹を龍子(松の丸殿)を側室とすることで高次を許した。関ヶ原の戦いの折は一旦西軍に属し、北陸征討軍に加わったが、大津に引き返して籠城した。西軍毛利元康らの猛攻を受けたが、関ヶ原の戦いの開戦前日9月14日に開城した。
京極 高知 きょうごく たかとも  丹後国宮津城主。京極高次の同母弟。兄高次とともに豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いの際には、徳川家康と共に上杉景勝討伐軍に加わり、岐阜城攻撃に戦功を挙げた。関ヶ原の本戦にも参加。戦後、兄高次が守る大津城を救援しようとしたが、すでに開城した後で、家康の命を受け、高野山に入った高次の復帰を説得した。関ヶ原の戦功により丹後国12万石を与えられ、田辺城に入り、のち宮津城を築く。大坂冬・夏の両陣にも参加した。1622年(元和8年)8月12日京都で没する。熱心なキリシタンとしても知られた。
京極 忠高 きょうごく ただたか  出雲国松江城主。京極高次の長男。大坂冬・夏の陣に従軍。跡継がなく、甥の高知を末期養子としたが、幕府に認められず領地は没収された。しかし、高次、忠高の功を賞し、とくに高和に播磨国竜野6万石が与えられた。
京極殿 きょうごくどの  龍子。=松の丸殿
キ音
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