| 武将名 | 武将名(ひらがな) | 概略 | 関連ページ | |
| 樋口 兼豊 | ひぐち かねとよ | 直江兼続の父。長尾政景の元で活躍。政景没後は景勝の元で活躍。次第に出世し直峯(なおみね)城主となり、伊予守を称する。1600年(慶長5年)上杉の出羽攻略の際、米沢城の留守役を務めた。 | ||
| 久松 俊勝 | ひさまつ としかつ | 尾張国阿久比城主。松平広忠と離別した於大が嫁ぐ。 | ||
| 土方 雄久 | ひじかた かつひさ | 織田信雄の家臣。伊勢国田丸城に居住し、18歳の頃から伊賀征伐で活躍し、信雄の家臣となり100石を領する。1583年(天正11年)秀吉が滝川一益を討ち伊賀国菰野を信雄に与えると、信雄はこれを雄久に与えた。同年3月信雄の命で秀吉への内通疑惑で岡田重孝を伊勢国長島城にて殺害。小牧・長久手の戦いの功により信雄から尾張国犬山城4万5千石を与えられた。小田原征伐の折にはに従い、各地を転戦した。 信雄徐封後は豊臣秀吉に属した。家康から大野治長、浅野長政と共に家康暗殺の計画の疑いを掛けられ、常陸国佐竹家に預けられた。関ヶ原の戦いの前に許され、1608年(慶長13年)に死去。享年56歳。 |
織田家臣団 | |
| 尾藤 知宣 | びとう とものぶ | 早くから豊臣秀吉に仕え、1573年(天正元年)、近江長浜で250貫を与えられて黄母衣衆・大母衣衆に名を連ねた。1585年(天正13年)、秀吉の弟秀長に従って四国征伐に参加し、その功により翌年、讃岐丸亀5万石に封ぜられた。しかし、1587年(天正15年)、九州征伐に従軍した際に日向根白坂の戦いで島津軍の攻撃を受けた味方の救援を怠り、秀吉の怒りを買って所領を没収された。その後、伊勢の朝熊山に潜伏し、1590年(天正18年)7月、小田原を平定した秀吉の前に剃髪して現れ、寛恕を請うたが容れられず、下総古河の路上において処刑された。最期については諸説あり、下野那須で殺されたとも、また1588年(天正16年)に奈良で病死したともいわれている。 | ||
| 一柳 直末 | ひとつやなぎ なおすえ |
はじめ、秀吉の知行美濃2千5百貫のうち25貫を与えられた。播磨攻略で戦功を立て、1573年(天正元年)9月近江国長浜のうち2百5十石を領した。黄母衣衆、大母衣衆となり1578年(天正5年)10月播磨国姫路のうち2千5百石、1585年(天正12年)5月小牧・長久手の戦いでは美濃国竹鼻城を攻め落とした。1588年(天正15年)丹波国・山城国のうち五千石、ついで6千2百石の加増を受けた。 諸所の戦で功績があり、兵糧奉行・普請奉行として重用された。堀尾吉晴と共に120日間籠城した鳥取城の守将吉川経家に降伏を勧める。 1590年(天正18年)小田原征伐に従軍し、3月29日伊豆山中城攻めの先鋒として奮戦したが、流れ弾にあたり戦死。享年45歳。 |
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| 平岩 親吉 | ひらいわ ちかよし | 徳川家家臣。家康の人質時代からの家臣。1579年(天正7年)信康の失脚の責を感じ謹慎。のち家康の命で出仕。家康の関東入国後、上野国厩橋城主となる。関ヶ原の合戦後、徳川義直の補佐役となる。1607年(慶長12年)義直の尾張国転封に従い、犬山城主となる。1611年(慶長16年)死去。享年70歳。 | ||
| 平手 政秀 | ひらて まさひで | 織田信秀の臣。信長の守役。年少期の信長の奇行ぶりを諌めるために諌死する。 邸宅には茶室を設けており、茶の湯も嗜んだようである。 |
織田家臣団 | |
| 煕子 | ひろこ | 明智光秀室。東美濃随一の美女と伝えられる。 | ||